「正しいこと」なんて存在しない。あるのは物質・現象と好き嫌いと論理だけ。
- 2018.11.13
- ライフスタイル

時に「正しいこと」を振りかざす人と出会いますが、ほんとにうんざりします。
自分はすべて正しいんだくらいに振る舞う人もいますね。
思い浮かべるだけでイライラします。
こういう人以外でも、「正しいこと」は存在していると思っている人は多いんじゃないでしょうか。
しかし、それは間違っていると思います。
僕の持論は「正しいことは存在しない」ということです。
今日は「正しさ」について書いていきたいと思います。
この世のほとんどは虚構に過ぎない
まず大前提として、いま僕たちの頭の中にあることのは虚構です。
ここでいう「虚構」とは、人間が頭で作り出したものであり、世界にもともと存在しないし、今も人間の頭の中にしかないものを指しています。
このことはベストセラーとなっている、『サピエンス全史』でも述べられています。
例えば、ルイ・ヴィトンを考えてみた時に、ルイ・ヴィトンの実体はなにかというと、そんな物存在しません。
ルイ・ヴィトンのバッグのモノグラム柄は、規則性をもって塗料が塗られているに過ぎませんし、ロゴだって革や金属の切れ端です。
ルイ・ヴィトンを運営している会社だって、その実体はありません。
会社という概念自体、「法人」と呼ばれ、法律のルールとして一個人のように扱われているだけです。
人間が集まって動いている、そういう現象の一部を、人間が「会社」と解釈しているに過ぎません。
同じようなことが、多くのことに言えます。
例えば「人を殺してはいけません」という問題。
もちろんこれも「虚構」です。
人が人を殺してはいけないというルールが、地球の普遍のルールとして人類が生まれる前からあったはずはないですよね。
人類が生まれて現在に至る過程で、「人を殺してはいけない」という考えが生まれ、それが広く一般に受け入れられているに過ぎません。
それがあたかも普遍の真理のように語る人がいますが、それは間違っています。
多くのことは人間が生み出した虚構であり、普遍的なものなんてほんとに限られてくるのです。
存在するのは、「物質/現象」「好き嫌い」「論理」
身の回りのほとんどは虚構ですが、否定できない存在もあります。
それは「物質」「好き嫌い」「論理」です。
物質/現象
物質とは文字通り、そこに存在する物質それ自体です。
例えば目の前にコップがあります。
これを「コップ」と表現している時点では、虚構を含んでいます。
より確実にいいあらわすと、「土を固めて焼いたもの」です。
人によっては僕の目の前にあるコップに花を植えるかもしれませんもんね。
より抽象度を上げるとこの表現になります。
といってもこれでも十分ではありません。
目の前にあるものを言葉に変換した時点で何かしらかの解釈が含まれますので、この目の前のコップを100パーセント解釈なしに言葉にすることは出来ないんです。
そして現象はそれら物質の動きです。
僕がこのコップの水を飲んだとして、「飲んだ」という表現は虚構を含みます。
少し抽象度を上げると「土を固めて焼いたものを口に移動させた」ですし、こちらも言葉にしている時点で100パーセント解釈を除くことは出来ません。
好き嫌い
身の回りの物質・現象を人間が感知すると、人間の頭の中でなにか刺激が起こります。
わかりやすく言うと「好き嫌い」です。
ポジティブな感情が湧き立てば「好き」、ネガティブだと「嫌い」
もっとたくさんありますが、ここでは正しさの話をしているので、単純化させていただきます。
この「好き嫌い」が人間の頭の中で発生するのは、否定できない事実です。
この感情の出方は、人によって違います。
当たり前のことを繰り返しますが、人によって違うのです。
例えば、大物政治家を見て、「すごい!かっこいい!」と思う人もいれば、「政治家なんだから汚いことばっかやっているやつなんだろう。胸くそ悪い」と思う人もいるのです。
人によって違うし、どれが正しいとも言えないのです。
論理
「物質/現象」や「好き嫌い」から「論理」を使って話を展開することができます。
例えば、「コップの中に水が入っている」「水は0度以下になると凍る」という前提があれば、「コップの中の水は0度以下になると凍る」という論理が展開できます。
科学は「物質/現象」を「論理」で展開していく学問だとも言えますね。
また、「韓国人は好きではない」という前提から、「海外の人が日本を訪れるのは反対だ」という論理展開もできます。
すべて「物質/現象」か「好き嫌い」に行き着く
まとめると、すべてのことは「物質/現象」か「好き嫌い」から、論理的に展開されていったことということです。
逆に言うと、すべての事のもとを辿れば、「物質/現象」か「好き嫌い」にたどり着くということです。
社会に存在している物事を、人間が解釈をして、感情を付加して、様々な意見、考えに発展させているだけです。
それ以外に確かなもの、「正しいこと」は存在しないのです。
例えば、不倫をしてはいけない、という意見について。
この元をたどれば、「既婚者は配偶者以外を愛してほしくない」という感情にいきつきます。
この感情から「不倫をしてはいけない」という言葉に論理展開されているので、この言葉を同じ感情を持っている人に言うのはまだいいです。
しかし、根本の感情を知らずか無視してか、この感情に共感しない人にも「不倫をしないこと」を強制しようとしてくる人がいますよね。
そういう価値観の強制には、ほんとに疲れ果ててしまいます。
法律や倫理とは「正しさ」なのか
正しさを語る時に、法律や倫理が持ち出されることがあります。
しかし法律や倫理が「正しさ」と言えるのかは疑問です。
法律や倫理は一言で言うと「治安を守るための合意」です。
これまで書いてきたように、人が考えるようなことの大体は「正しさ」なんてものありません。
人によって見えている世界が違うということですから、人々の価値観はそもそもバラバラだということです。
そんなバラバラな価値観でお互いを理解出来ないと、いつ衝突が起こってもおかしくはないですね。
そんな状況を解決するのが法律や倫理と言うものです。
誰でも自分の物を取られることは嫌うと思いますが、人のものを平気で取ってしまう人もこの世界にはいます。
それなら「人の物をとってはいけない」というルールをみんなで作り、違反した人には罰則を与え、それでも違反をするならその社会から締め出してしまうのです。
みんなである価値観への合意をとることにより、平穏な日常を守ることが出来ます。
法律までいかなくても、そのルールが求められるのであれば、倫理感として社会の中で育っていくこともあります。
罰則はありませんが、違反をすると社会の中で除け者にされる点では同じでしょう。
法律・倫理ともに、それ自体が正しいものではなく、社会の要請によってルール化されているに過ぎないのです。
最後に
自分は正しいのだと考えている人が結構多くて驚きます。
僕は昔から変人枠で扱われてきたので、正しさなんてはなから信じてはいなかったのですが、優等生タイプの人はどうしても正しさを求めてしまうんではないでしょうか。
これから日本でも外国人がどんどん増えていくので、正しさを求めることをやめ、価値観の多様性に対応できるようになれば、閉鎖的な日本もおもしろくなっていくのかもしれません。
※ここで書いてきた考え方も、幻想です。
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