「仕事」について改めて考えてみる

コロナでビジネスの環境が激変しています。
リモートワークになったり、仕事が急増したり、逆に会社自体がなくなったという人もいるでしょう。
働き方について関心が高まっている今、改めて「仕事」について考えてみたいと思います。
どうして働かないといけないんだろう
常識人の自負がある人は、働くことが当たり前だと思っているでしょう。
しかし、そもそも人はどうして働かないといけないんでしょうか。
真っ先に思いつくのが生きていくため。
稼ぎがないと食べ物を買えないし、家賃を払うこともできないですもんね。
でも生活保護を受けながらでも生活できますよね。
にもかかわらず働くのは、常識として「働く」ということを盲目的に受け入れているか、盲目的でないにしても世間体としてニートは嫌だと思っているのでしょう。
そして世間からの目線を拡大すると、「大企業で働きたい」「仕事で成果を出したい」という、いわゆる承認欲求のために働く、という感情もあるかと思います。
ここまではまわりの目線があるから働く、ということといえます。
さらにはいわゆる「やりがい」や「自己実現」ということもあります。
「やりがい」は「誰かのため」や「評価されたい」という承認欲求の延長の事が多いですが、「自己実現」は、まわりの目線は関係ないので、仕事の目的となる新たな側面と言えます。
目線を変えてみると、生活できる最低限の生活では物足りない!という感情もあるかと思います。
言ってみれば消費のために働いているということです。
社会的承認ははっきりとした形で心の表層に出てきづらいので、「なぜ働くのか?」と問われた時に、こっちが思いつくことの方が多いのかもしれません。
雑ですがまとめると、人が働くのは、生きていくため、社会から受け入れられ承認されるため、自己実現のため、たくさん消費するため、というところでしょうか。
縄文人の労働時間は1日4時間
「縄文人の労働時間は1日4時間」という話を聞いたことがあるでしょうか?
縄文人は狩猟や採集をしながら生活していましたが、1日4時間程度働くことによって生活できるだけの食べ物を集めることができていました。
現代は農業中心となっているため食べ物を作り出すプロセスは違いますが、さすがに縄文時代よりは食べ物の生産性は上がっているはずでしょう。
なのに一般的な現代人は、週5日だけだとしても、1日8時間以上の労働を強いられています。
縄文時代から弥生時代に移ると、労働時間が増えたと言われています。
狩猟採集中心から、稲作中心となるので、単純比較はできませんが、そこには権力の登場があったと考えられます。
権力構造ができると権力者は下々の人々から税を取ります。
権力者からすると、極限まで税収を増やしたいですよね?
となると、下々を限界まで働かせて、生活する最低限の生産物だけ残して、あとは税として徴収すれば一番効率がいいです。
農業は明るい時間しかできませんから、仕事時間はせいぜい8-12時間くらいでしょうか。
現代の仕事時間と近づいてきましたね。
この構造になったせいで、自分がどれだけ生産しているかと、自分の労働時間(同じ労働時間なら収入額)が比例しなくなりました。
生産性はどんどん上がっているはずなのに、労働時間は変わらないんですね。
分業化されてわかりづらくなっている「仕事」
現代において人々の生産物を吸い上げる「権力者」は国と企業ということになるでしょう。
民主主義国家ですから、国が吸い上げたものは国民に還元されるので、国は性質が違うかもしれませんが。(疑問の余地は大いにあります。)
となると人々から吸い上げている中心は企業となります。
企業に務めている人は、だいたい週5日で8時間働いて、月にして15~80万円くらいもらっている人が多いでしょうか。
企業によっても人によっても生産性は大きく違うのに、同じくらいの時間働いて、収入はせいぜい5倍くらいしか変わらないっておかしいと思いませんか?
生産性は数十~数百倍の単位で変わってきそうなものですが。
これを引き起こす構造の根本は、すでに話した権力構造があると思います。
企業はたくさん働かせて、それなりに満足できる給料を与えていれば良いのです。
しかし、そんな構造を疑問に思わないのには、高度に進んだ「分業」があります。
分業化されていない農業をしていると想像しましょう。
自分一人で大きな田んぼで米を育て、自分自身で生産物を売って2000万円の儲けが出たとして、雇い主から「今年1年の給料だよ」と300万円しか渡されないとしたら、さすがにおかしいと思うでしょう。
しかし同じ米作りでも、たくさんの人で一緒に育てたり、種籾を仕入れる人、できた米を売る人などが別にいると、給料が年300万円だとしても、「そんなものかな」と思ってしまうわけです。
そしてこの分業は企業間でも起こっています。
例えばネジを作っている会社があるとしたら、製造するネジだけでは何の意味もありません。
ネジ会社が自動車部品会社にネジを売り、そのネジがついた部品が自動車会社に販売されて、自動車という生産物ができます。
ネジ会社に勤めている1社員としては、自分が一体どの程度の価値を生み出しているのか、想像もつかないですよね。
「分業」が進んだ社会とはこういうものです。
消費のために働く現代人
現代人の労働時間が長い理由のもう一つの側面として、消費の量がどんどんと大きくなっていることがあります。
人が一人生活していくのに最低必要な金額はどれくらいだと思いますか?
僕の感覚だと大卒初任給である20万くらいかなと思います。
僕は今20代ですが、もっと歳をとるとこの金額も上がってくるでしょうし、子供がいるかいないかでも変わってくるでしょう。
地元の田舎に引っ越してきて思うのは、最低限の生活をするのに必要なのは、10万円もあると余裕です。
ど田舎までいくと、ずっと空き家でタダでいいから誰かに住んでほしいという家はたくさんありますし、そういう土地だとまわりの人がたくさん野菜をくれます。
僕は去年1年は畑をやっていたのですが、野菜は大きさや見栄えにこだわらなければ、すごく簡単にできます。
そんなこんなで工夫をしていれば、月5万でもお釣りが来るんじゃないでしょうか。
だけどそんな金額では生活できないのは、人は、特に現代人は、単に生きているだけでは満足できないからです。
新しいものがほしい、便利なものがほしい、友達と同じものを持ちたい、恥ずかしい生活はできない、まわりからすごいと言われるものを持ちたい。
そうやって自分が消費するものをどんどん増やした結果、たくさん労働しなければ生きていけない状況が生まれてしまうのです。
まとめ
生産性は上がっているのに、こんなにも労働しなければならない状況が、なんとなく理解できたでしょうか。
この構造から抜け出すためには、自分が権力側に行くか、国家を社会主義に寄せていくか、小規模な共同生産コミュニティをつくるか、消費をへらすか、などという選択肢があります。
権力側にいくのが一番簡単で、自分もこの方向に行くしかないかなと思っています。
「起業しろ!」とか「資産をもて!」とよく言われるのは、この方向のアドバイスですね。
僕は運良くこの状況から開放される方向に動いていますが、つらそうに働く友達を見るのはきついものです。
この記事がそういう人たちに届けばうれしいです。
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