2つの「自由」を個人の視点から考えてみる(消極的自由と積極的自由)

「自由」という言葉の意味を考えたことはありますか?
毎日いやいや会社に行って、「俺には自由は無いんだろうか。。」なんて思っている人も少なくないと思いますが、そんな「自由」という概念は深く考えてみると様々な側面が見えてきます。
今回は「消極的自由」と「積極的自由」という視点から、自由について少し考えてみたいと思います。
「消極的自由」と「積極的自由」
この考え方はイギリスの政治哲学者アイザイア・バーリンによって提唱された、政治分野での学術的な分類です。
この記事では個人視点で話していきたいと思っていますが、まずはこの考え方を整理するために、政治におけるこれらの概念について説明します。
「消極的自由」と「積極的自由」は「自由」と一言で語られがちな概念を、消極的か積極的かという2つの視点で説明しています。
消極的自由とは、まわりから自分の行動をコントロールされるようなことがなく、自分のやりたいことを自分で決められているように放任されている状態、のことを言います。
江戸時代は職業を選ぶことは基本できず、親の仕事を引き継ぐしかありませんでしたが、現代では職業選択の自由が認められており、親が農家でも政治家になることを目指すことができます。
これは江戸時代よりも現代のほうが消極的自由が認められてきているといえますね。
一方で積極的自由とは、自分の行動が自分の意思に基づいて行えることを言います。
消極的自由がまわりから自分に向かってくる強制に視点が向いていたのに対し、積極的自由は自分の内側から外に飛び出す意思に視点が移ります
また江戸時代を例に出しますが、当時は藩や幕府が政治を行っていたのに対し、現代では民主主義なので、投票や議員になることなどによって、政治にたずさわり、自分の生活を自分の意思で変化しやすくなりました。
なので江戸時代よりも現代のほうが積極的自由が許されてきていると考えられます。
消極的自由と積極的自由は「~からの自由」と「~への自由」とよく言い換えられるのですが、これだとイメージしやすいですね。
政治における2つの自由
政治の世界においては、消極的自由が重視される世界は自由主義や資本主義を重視します。
アメリカの政治が現代ではイメージに近いでしょうか。
あまり個人に制約をかけることもなく、好きにお金を稼いでいいし、銃を持ってもいいし、税金も低かったりします。
一方で積極的自由を政治的視点で考えると、共産主義や全体主義に行き着く考え方もできます。
どういうロジックでこれらの考え方に行き着くかと言うと、積極的自由は自分の内側の意思を重視しますが、子供や教養のない人、自分の意思で動く気のない人(=人生を諦めている人?)、生活に困窮していて正常な判断ができない人、などは自分の意思で理性的に判断できないと捉えます。
そしてそういう人たちも含めて積極的自由を得るためには、国全体が理想とする姿(=システム)を国家がデザインして、国民一人一人が理性的に判断しなくても、理想的な生き方ができる社会を作ろう、という考え方ができます。
共産主義は、資本主義の中で酷使される労働者たちを救うために、私企業をなくして国営化し、個人の自由も制限していきました。
共産主義はいまではただの悪者ですが、国民を制限することを目的としたものではなく、資本主義社会において労働に苦しめられて逃げ出すこともできない人々に、労働からの自由の手を差し伸べることが目的でした。
政治的な流れを整理すると、産業革命などにより資本主義が発達した頃には、各国が王政から民主主義化されていた経緯もあって、国家からの消極的自由の担保が重視されました。
しかし資本主義が発達してくると、企業が労働者を酷使するなど放任しすぎて社会が荒れてきたので、様々な規制が国家によって加えられてきました。
その中で社会を良くするために極端な規制を行う共産主義やファシズムが現れましたが、これらは失敗したと判断されています。
しかし放任主義による弊害は解決されたわけではなく、そこに対してあまり手を加えてこなかったアメリカは現代ではかなり格差が開いている結果となりました。
一方で日本やヨーロッパ諸国は、適度に制限を加えることによって、ちょうどいい状態をつくろうとしています。
労働者の権利は担保され、職を失っても最低限の生活はでき、病気になっても保証が厚い、しかし税金は高いし、起業したら社員を都合のいいように働かせることができませんし、麻薬に興味があってもつかっちゃダメだし、食品添加物なども制限が多かったりします。
消極的自由も積極的自由も制限しにかかっている状態ですが、それで社会全体としてはある程度の消極的自由と積極的自由を担保しているという状況になります。
個人視点で2つの自由を考える
こういう政治状況の中に生きる個人の視点から、この2つの自由概念はどう捉えられるでしょうか。
まずは「消極的自由」について。
政治的な視点で見ると、あまり行動の制限をされている感覚は無いですが、税金は高いですね。
国家権力からの消極的自由の制限というよりも、まわりの社会環境からの制限の方が気になります。
例えば親の介護、家業を継がないといけない、仕事で疲弊しているけどやめられない、などです。
政治的に消極的自由が担保されていても、複雑な社会で生きる僕達はまわりから消極的自由を脅かされかねないので、それらと戦う必要があります。
とはいえ法律で決まっているわけではないので、その気になればまわりからの制限ははねのけられます。
僕の場合だと、父が事業をしていますがそれは弟がやる方向で進め(弟がやらないといったら会社を畳むつもりでした)、かつては会社勤めで疲弊していたので自分でビジネスをはじめて、今では会社勤めをやめたのでそういう制約はありません。
要は、消極的自由(=まわりからの制限からの開放)を得たければ手放しではダメで、自分自身で手を尽くす必要があるのです。
次に「積極的自由」について。
これも歴史的に見て、政治的にはかなり制限がない状況だと思います。
その気になれば総理大臣を目指すことだってできますしね。
なれないのは皇族くらいでしょうか?
しかしこれも社会からの制約があります。
わかりやすいので言うと、「学歴フィルター」なるものがありますが、これは学歴が低い場合は企業の選考のテーブルに乗る前に弾いてしまうというものです。
企業側も私企業なので、学歴によって選考から落とす自由があるわけですが、それによって働きたい企業に行ける確率が1%もなくなってしまうのは、個人視点からすると「積極的自由」が制限されている感覚になります。
あとは資格がないとできない仕事もあり、医師免許がないと手術などはできませんね。
とはいえ学歴を得る、資格を取るという行為は誰にでも開かれていることであり、もちろんやりたいことが100%実現できるなんてことありませんが、あらゆる選択肢の可能性は大いに残されているのが、今のこの社会だと思います。
どちらかといえば、積極的自由を制限しているのは自分自身です。
やりたいこと、目指したいこと、理想、そんなことが自分の中にありつつ、そんなの無理だと決めつけて行動に移せない人。
もしくはそんなものとっくに捨て去ってしまってて、日々の労働の勤しんでいる人も多いかもしれません。
だけど歴史的にみてめちゃくちゃ自由が担保されているのが今だと思うんです。
あらゆることの可能性はすでに開かれていて、あとは自分自身がどう考えてどう行動するかにかかっているのだと思います。
おわりに
ということで2つの自由について説明しました。
「自由」ってけっこう漠然とした概念ですが、こういう2つの視点に分けて考えると、かなり理解が深まるように感じます。
そしてこれは政治学での考え方なのですが、個人的にも有用だと思って、こういう噛み砕き方をさせていただきました。
自由を漠然と考えていると、消極的自由にばかり目が行くように感じます。
僕も会社勤めで疲弊してた時期がありましたが、あのころは労働から開放されるとどんなにいいだろうと考えていました。
しかし労働という制約からの開放は消極的自由を得るに過ぎず、その先に何をしていくかという積極的自由の発想がなければ、真に自由にはなれないのです。
結果的に、労働から開放された後の自分は、自分のビジネスを大きくすべく前にも増して働いていますし、こんな長文のブログを書いたりもしています(笑)
すごくせかせかした日常ではありますが、おそらく本当の自由というものが近づいていて、日々の充実感は以前と比べるとかなり高いです。
とはいえ、今のビジネスはとりあえず儲かるものと思ってやっているため、自分が社会に対してどう働きかけたいとかは考えられていません。
ビジネスが拡大し、理想を叶える事業にも広げていけたら、本当の自由というものがついに手に入れられるのではと考えています。
皆さんの人生においてはどうでしょうか?
今一度「自由」について考えるきっかけとなればうれしいです。
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